2020年 05月 25日
「まことさん」 |

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by itokoshi
| 2020-05-25 21:36
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2020年 05月 25日
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by itokoshi
| 2020-05-25 21:36
2020年 05月 24日
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by itokoshi
| 2020-05-24 18:36
2020年 05月 21日
![]() 今日は「共働学舎」の田植えの日。今年はコロナの影響で人手も少ない。早速手伝いに行った。ここでの田植えは今では珍しい「手植え」で行う。ひざ下までの田植え靴を履き、ヤッケを身にまとい、腰に苗をいれるケースをくくりつけて田んぼに入った。天気は曇り。しかし装備を付けて田んぼに入ると、これがなかなか気持ちが良いのだ。まず泥に足を入れた時の「ヌルヌル」感が心地よい。柔らかい泥がゴムの田植え靴を優しく包んでくれる。引かれた線に沿って苗を植えて行くと、途中で泥が顔に跳ね、それを手の甲なんかで拭いたりすれば、顔に泥が広がってさらに汚れてしまう。しかしそこで感じる不思議な解放感。普段の生活では無意識のうちにも「汚れないように、汚さないように」と、気をつかい続けているのだろう。そうした思いから逆に、泥に汚れることで開放されていく。「汚れてはいないか…」などと周りの目を気にする必要もない。なぜなら周りの皆も同様に、”泥まみれ”なのだから。”汚れている自分”、そんなありのままの自分自身をさらけ出せる、こうした「解放感」が田植えにはある。・・・今日は曇天。しかし曇り空の上に、お日様の存在を感じられる一日だった。 #
by itokoshi
| 2020-05-21 22:35
2020年 05月 20日
最近、「信州風の家」の周りにある畑の手伝いに行っている。畑の持ち主は、元家主のOさん。御年86歳。ジャガイモの種イモの植え付けから始まり、ピーマン、ナス、きゅうり、かぼちゃ、夕顔の苗、そして一昨日は黒豆の直播。Oさんは農作業を教えながら、昔の生活を色々話してくれる。「昔は家(今の風の家)に馬を飼ってたんだ。家の中に一緒に住んで。馬は便利で頭がイイよ。私の小さかった頃は馬で田畑を耕す。馬は叔父さんの言うことは素直に聞くが、子供の私なんかチラッと見ただけでバカにして動かない。・・・それから、あそこの用水。昔はもっと水量があって水車が三つも回ってた。その中の臼で米を搗いて精米するんだ。燃料なんか使わないよ。自然の力だ。昔の生活は大変だったが、何でも無駄無く使ったな・・・」今のあり方とかけ離れた昔の生活。そんな話を目の前にいるOさんから聞いていると、不思議な気持ちになってくる。さらにこんな話もしてくれた「戦争の頃、この村には東京のキタミというところから小学生が学校ごと疎開していた。みんな腹空かせてたよ。授業終わると、私のところにみんな寄って来て『O君、なにか食べるものない、食べるものない』って何度も聞いて来るんだ。彼らの食べてた物って言えば、お湯の中にコメが数粒入ってるだけの粗末な食事。そりゃあ腹空くよ。可哀想だったなあ。あんまり可哀想になって、何人かを家に連れてって、釜の中の残り飯をコッソリ食べさせたんだ。結局、その飯を全部食べちゃったんだが、それでも『O君、もっとない。もっとない』って言ってくるんだ。あれには困ったなあ・・・」今から75年前、この地の子供にはそんな現実があったのだ。その時ふと、先日行ったドラッグストアの貼り紙が思い浮かんだ。そこには「マスクありません。入荷の見込みも未定です」と書いてあった。 今、確かに世の中マスクが足りなくて困っている。本当に苦労している
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by itokoshi
| 2020-05-20 14:05
2020年 05月 16日
![]() たとえば現在、高齢で施設に入っている親を自粛要請のもと控えている方々もいるでしょう。また、経済的貧困にあえぐ子供のための、子供食堂開催を自粛せざるを得ないでいる方もいらっしゃると思います。こうした大事な親への訪問や、子供への食事提供を泣く泣く自粛している方々の気持ちは、決して自らの行為を”不要不急”と捉えて自粛しているわけではなく、今の時期、病弱な親や貧困にあえぐ子供たちの健康を守るという「他者への思いやり」が”必要緊急”ゆえに、苦渋の決断として自粛をしているのだと思います。自粛という行為の根本動機は、”不要不急”以上に「他者への、その中でも特に社会的弱者への思いやり」という優しさではないでしょうか。そして教会が公開ミサを中止しているのも、まさにこの点に基づくのです。 ミサは決して”不要不急”ではありません。必要不可欠なものです。しかしその公開以上に「他者への、その中でも特に社会的弱者への思いやり」すなわち「愛」がキリスト教では大切なのです。ミサは「愛」の現れそのものです。その「愛」に反して、現時点ではミサを公開することはできないのです。 さらに、この「他者への思いやり」が必要とされるのは、コロナ下の今に限られるものではなく、以前もそして将来に渡っても、私たちが平和な世界を築いて行くため必要不可欠なものでしょう。今回のコロナによる悲しい出来事を通して、私たちが今まで以上に「他者への、その中でも特に社会的弱者への思いやり」を大切にする世の中を実現する道具となっていくこと…それがコロナ後の世界を生きる私たちの役目ではないでしょうか。「信州風の家」がそのための一助となることを願っています。(追記:新潟教区では5月24日から、日曜の公開ミサを感染対策を取りつつ再開する予定です)。
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by itokoshi
| 2020-05-16 13:48
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