2020年 07月 18日
100年前の柱と梁との対話 |
まず感動したのはその美しさ。茅と木と縄から生み出された天井の模様と、太く荒削りの木材の姿が不思議な調和を生み出している。そしてその美しさは、単にある大工個人が作ったものではない。何百年にも渡るこの地域の風土そして文化から生み出され伝承されて来た「歴史の賜物」なのだ。そこに美しさが宿る。
またこれらの材は、例のOさんの家が所有する森から切り出したケヤキや松だという。自分たちの手で育てた木で家を建てるなど今では大変珍しい。食料も住宅素材もそれなりに自前で用意できたかつての生活と、一見繁栄を謳歌しながらも全てを外部に依存している現代生活と、どちらが本当に豊かなのだろうかと考えてしまう。
さらにこの木材を見ていて驚くのは、今の建材のように真っ直ぐ均等な角材ではないことだ。写真を見ればわかるように、皆それぞれ曲がったり少し捻れたり、どれ一つとっても同じものがない。こうした姿を眺めながら、かつて読んだ一冊の本を思い出す。タイトルは『木のいのち木のこころ』。著者は宮大工棟梁の名匠、故西岡常一氏。少し長いがその一部をここで引用したい。
「これはこういう木やからあそこに使おう、これは右に捻れているから左捻れのあの木と組み合わせたらいい、というようなことを山で見わけるんですな。これは棟梁の大事な仕事でした。…癖というのはなにも悪いもんやない、使い方なんです。癖のあるものを使うのはやっかいなもんですけど、うまく使ったらそのほうがいいということもありますのや。人間と同じですわ。癖の強いやつほど命も強いという感じですな。…ほんとなら個性を見抜いて使ってやるほうが強いし長持ちするんですが、個性を大事にするより平均化してしまったほうが仕事はずっと早い。性格を見抜く力もいらん。そんな訓練もせんですむ。…そして逆にこんどは使いやすい木を求めてくるんですな。曲がった木はいらん。捻れた木はいらん。使えないんですからな。そうすると自然と使える木というのが少なくなってきますな。それで使えない木は悪い木や、必要のない木やというて捨ててしまいますな。…もう少しものを長い目で見て、考えるということがなくてはあきませんな。今はとにかく『使い捨て』という言葉が基本になってしまっているんですな。…」
曲がった材を眺めながら考える。自分は他者(そして自分)の個性をしっかり見抜き、そこに役割を見出しているだろうか、と。その力が無く、またその力の無さに気づくことも無く、安易に「曲がった木はいらん。捻れた木はいらん」と今まで決めつけていなかったか、と。
100年前に組まれた柱と梁。そのどっしりした姿を眺めながら、それらを通して、ある語りかけを聴いたような気がした。
by itokoshi
| 2020-07-18 23:55