2020年 06月 15日
”最後の晩餐”は「横並び」? |

ところで話は変わるが、過日、国の専門家会議が「新しい生活様式」を提言した。提言当日、私はその内容をある民放ニュース番組で知ったのだが、その中に「人との間隔はできるだけ2メートル空ける」「まめに手洗い手指消毒」などに加えて、「食事は対面ではなく横並びで座ろう」というものがあった。その時、この提言にコメントした出演者(感染症の専門家)の言葉に、私は思わず耳を疑ってしまった。彼は次のようなことを言ったのだ。「こうした生活様式は、コロナが終息したあとも感染症対策として、ずっと続けた方が良い新しい生活スタイルです…」。その人は一般家庭においても、こうした食のスタイルをずっと続けるべきだと言いたげだった。
確かに現状においては、コロナの蔓延防止そして医療崩壊を防ぐことは最優先課題である。従って、緊急対策として外食等で「食事は対面ではなく横並び」を勧めるというのは致し方ないことだと思う。しかし、このコメンテーターのように、そうした食べ方を一般家庭で(幼い子供もいる!)コロナ終息後もずっと続けるべき「新しい生活スタイル」とまで言ってしまうのは、いかがなものだろうか?それは「食」の意味をあまりに軽んじた発言のように思えて仕方がなかった。
文化人類学者の石毛直道氏や人類学者で京大総長の山極寿一氏が述べているように、人間にとって「共食」することは 他の動物と人間を区別する極めて大切な要素である。そして「共食」をすることによって人間は、コミュニケーションや共感力を発達させ「家族」さらには「共同体」のつながりを維持してきた。当然その「共食」とは、何らかの形で食卓を囲み、相手の顔と向かい合う「対面行為」を含むものだろう。相手と「1メートル以上距離を取って横並び」した食事は「共食」ではない。そんな形が家族での「ニューノーマル」になれば(ニューノーマルという言葉は、元来”経済”用語)家族は崩壊し、共同体も崩壊し、やがては長い年月をかけて培ってきた人間性も崩壊の危機に直面する。それほど「食卓を囲んでの共食」は大切なことなのだ。
あのレオナルド・ダビンチの絵を見て、イエス・キリストの「最後の晩餐」の姿を「横並び」の食事と誤解している人たちがいる。前述の専門家会議の提言を受けて、インターネット上には、「まるであの『最後の晩餐』の絵のよう」という書き込みもあった。しかし、あの「横並び」の絵は、あくまでダビンチ絵画独自の「構図」から生まれたもので、実際のイエスの「最後の晩餐」が「横並び」だったわけではない。イエスは当時の現地の風習に従って床に身を横たえてはいたが、確かに弟子たちと「食卓を囲んで対面し」食事をしていたのである。さらに日常の食事においても、疎外され苦しみ悩む人々と食卓を囲むことを大切にされていた。なぜなら「食卓を囲み共食すること」が、悩み苦しみ人々への共感を体現する行為であり、それが人々を慰め力づけることを知っていたからだ。「最後の晩餐」におけるイエスの深意の一つもそこにある。
なにはともあれ、実際のイエス・キリストの「最後の晩餐」は横並びではない。コロナの事態が早く収束し、誰とでも気兼ねなく「食卓を囲み共食できる日」が再び訪れることを心から願っていている。我々が「人」として生きるために。
by itokoshi
| 2020-06-15 18:20